軽やかに踊る

備忘録

感情の境界線

 

"ちょっとこれはね、問題提起的なことになるかもしれないんだけどね。例えば、「ニンジンが嫌い」。いますよね。いますいますいます。逆に「ニンジンが好き」。こういう人もいます。うん。要は、人間の方にその原因・要因がある。そのニンジンを好きな人もいれば嫌いな人もいるよ。味が苦手とか、味が好きとか、うん。そういう人間側に要因がある。ところが、最近はね、嫌いになる問題がニンジンの方にあるのではないかっていう風に考える風潮になってきていると思うんだよ。「このにんじんは何がダメなのか」「ニンジンの苦いという要素があまりよくないのではないか」「じゃあその苦みを取ろうよ」っていう世の中にちょっとなってきてると思うんだよね。うん。なんかこれって俺どうなんだろうって思うのよ。うん。それはさ、ちょっと変じゃない?ずれてきてるような気がしない?うん。それはやはり、それを受け取る、そして発信する側の人間の個性であると思うんだよね。うん。ピーマンだってそうかもしれないし、例えば魚もそう、虫もそう。うん。好きと嫌いっていうのはその人の中に起因するものがあって、そういう例えば出来事・エピソードがあるからっていう。味以外のところで嫌いになるかもしれないしさ。でもその嫌いのもとっていうのがこの物体の方にあるから問題なんだっていう風な動きがちょっと見え始めてるのが俺あんま好きじゃなくて。で、タモリ倶楽部でさ、グレープフルーツ見なくなったからっつってグレープフルーツを新しく使った、使った新しいレシピ考えようよっていうそういう企画があったんだけどさ。でもそのグレープフルーツに対して「最近の果物って糖度が高くてさ、甘いのが人気なんだよね」っていう趣旨のコメントをゲストがしてたら、そしたらそのグレープフルーツ担当の女性が「甘けりゃいいってもんじゃないよ」って言ってたのよ。多分ね、これだと俺思うんだよね。うん。なんかこういいと悪いの線引きがすごく曖昧な時代になっちゃってさ。だから、お肉等の食事に対してさ、「甘みがあっておいしい」ってコメントをする一方でさ、本来甘くておいしいものをさ、「甘すぎなくておいしい」って言ったりするような時代になってきてるわけじゃない。これがね、なんか俺ちょっと難しいなって思ってて。ホリエモンがさ、「野菜も食べた方がいい」に対してぶちぎれてたじゃない。「野菜もってなんだよ!野菜はおいしいんだよ!」みたいな感じで。なんかこれって今のリアクションだなっていう風にすごく思ってね。価値観って人の数だけあってさ。んで、例えば「これ好きなんだよね」とか「これ嫌い」、特に「これ嫌いなんだよね」っていうものに対して、要はそれってさ、意見じゃなくてただの感想だったりするんだけど、そこに突進していく人がいるじゃない。だからね、これが怖くなってきててね。うん。うっかり発言?考えや意見じゃないんだけどテキストになると思った以上に威力を持ってしまうみたいなことがあるからね。その辺はすごく、時代と付き合っていくのがね、ちょっとデリケートになってきてるなという風に思った。うん。あるよな。ね。数の威力もあるし、数の暴力にもなりかねないからね。うんその辺はなんかちょっと慎重に過ごしたいな~なんておじさんは思ったすぐ傷ついちゃうから(笑)"





っていうある方のラジオでの発言を聞いて、これって最近考えていることだなってすごく思って、またいろいろと考えてしまった。発信する側と受け取る側、与えられることと求めること、相手に対して望む自由とかありのままを許容する義務とか提供されるものへの感謝とか正しいファンの姿とか、いろいろな界隈で最近思うことがあって、それについて書いてみたいと思う。








この前とある芸能人のテレビ出演があって、おそらくたまたまテレビを見たのであろう人がその方のパフォーマンスについてネガティブな発言をTwitterでしていたんだけど、それに対してファンが「〇〇さんも頑張っているんです!」「なんでそういう風に言うんですか?」「じゃああなたはできるんですか?」ってリプを送っていて。そのときになんかな~って思ったんだけど、これってまさにこのラジオの後半の話のことだなと思った。それってなんか違くない……?自分の好きな人に対するそういう意見はもちろん嫌な気持ちになるものだしできれば目に入れたくないと誰しもが思うことだと思うんだけど、それってあくまで個人の感想であってどういう風に受け止めるのか、どういう感情を持つのかはその人の自由なんじゃない……?ってそのときに思って。実際その方のことを全然知らない人のネガティブな意見なんて的外れなものなのかもしれない。でも、事実と違うことを適当に言ってるとかではなくそのときはその人がただ思った主観的な印象を言っているだけだったから、その感想に対して突っかかることはちょっとずれてるようにわたしには思えた。やっぱり「そういうことを思うのは間違っている、こういうことを思うべきだ」って他人の感情に指図することはあんまり好きじゃないなと思う。

でも今書いていて、これって誹謗中傷を容認する意見にもなり得るのかなって気づいてしまった。難しいな。世の中には人を傷つけようという目的をもってそういう発言をしている人がいる。その行為は考えるまでもなく間違っているし、この世から消滅してほしいと思っているけれど、それも「個人の意見です!」って言葉を掲げてしまえば、わたしの思う「自由」な発言との線引きをするのは難しいのかな。こうやって書いている意見も誰かの批判でしかなくて、もう堂々巡りなのかもしれないなと思った。

結局、言い方の問題なのかな。上の例で考えると「そんなことないです!あなたはそう思ったかもしれませんが私はそうは思いません」的な……?でもそれもそれで知らんがなってなるわなあ。多分、わたしは「そんなことはないです!」はあくまで(それを言う)本人の意見の範疇に含まれるけれど、「なんでそう思うんですか?」ってそう相手が思うこと自体を否定することは間違っている、という基準で考えているだと思う。別垢のフォロワーさんが、「わたしにとっては嫌いと批判は全く違うもので、世の中の見方もそうであってほしい」といったニュアンスのことを話されていて、そのスタンスにすごく共感した。正しく明確な境目はきっと誰にも見つけることはできないけれど、そのことを認識した上で話すことがまず大切なんだろうな。ネガティブな意見を表明する場面では最低限言葉を選ぶ必要があると思っているし、個人が抱く感情の自由とそれを伝える上での客観的な正しさは別物だと思っている。

だからこそ何かを発言するとき、「わたしはこう思っている」って形を採ることを大切にしたいなと思うし、同様に自分の感情も大切にしたいなとも日々思っている……。基本ポジティブなことだけを呟いていたいけれど、そのとき思ったことはそれも一つの感情なのだから、無理に否定しないようにしたいなと。全部好きにならなきゃいけない、面白いと思わなきゃいけないっていうのはどんどん強迫観念になっちゃうと思うから。わたしは特に人の意見に影響されやすい人間だということを重々承知しているのにもかかわらずファンの方々の言葉を読むのがすごく好きで自分から見に行ってしまうので、ちゃんとそのときどきの自分のファーストインプレッションを大事にしたいなと強く思う。



あとで追記したいもの
・受け取り方の自由について(発信者の思いまで解釈することについて)
・発信者という立場から受け取る側に求めることについて(かわいいという感情を抱くこと、YouTuberのアイドル化)
・相手に意見することは優しさか、もっとこうしてほしいと言うことは正当化されるのか
・結論、推しには優しい世界で生きていてほしい話
nmmnの非対称性について
・マイナスを探そうとしてしまう悪癖について